大判例

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東京高等裁判所 昭和63年(う)598号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役六年に処する。

原審における未決勾留日数中一五〇日を右刑に算入する

押収してあるくり小刀一丁(当庁昭和六三年押第一九七号の一)、くり小刀の鞘一本(同押号の二)及び登山ナイフ一丁(同押号の三)を没収する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人湯川二朗作成名義の控訴趣意書に記載のとおりであり、これに対する答弁は、検察官遠藤寛作成名義の答弁書に記載のとおりであるから、これらを引用する。

一  立証責任の判断の誤りの主張(控訴趣意二)について

所論は、要するに、原判決は、被告人が原判示第一の犯行当時心神喪失あるいは心神耗弱の状態にあったという弁護人の主張を排斥するにあたり、「本件犯行時被告人が責任能力を全く欠いた、心神喪失の状態にあったということができないことは勿論、事理を弁識し、それに従って行動する能力が著しく減退した、心神耗弱の状態にあったとも認めることはできず、被告人の責任能力に関する弁護人の主張は採用できない」と判示しているが、責任能力の有無、程度に関し、心神喪失あるいは心神耗弱の状態にあったことについて被告人が立証責任を負うものではなく、そのような状態になかったことについて検察官が立証責任を負うべきものであるから、右のような判示をしている原判決には立証責任の判断の誤りがあり、この点訴訟手続に法令の違反があってその違反が判決に影響を及ぼすことが明らかであるというのである。

そこで検討すると、原判決には立証責任の判断に関し所論主張のような誤りはなかったものと考えられる。この点、被告人が原判示第一の犯行に際し心神喪失あるいは心神耗弱の状態にあったか否かに関し、原判決が判断を示した「弁護人の主張に対する判断」の一の項において、判文上、所論指摘のとおりの表現を用いた部分のあることはたしかである。そして、責任阻却事由ないし法律上の刑の減軽事由となる事実についても、検察官がその不存在を立証する責任を負っているのであるから、弁護人(被告人)からそのような事由の存在が主張された場合、右主張に対する判断は、検察官が右趣旨で立証責任を負うという前提に立つものでなければならないことはいうまでもなく、その意味で、原判決が「弁護人の主張に対する判断」の一の項において認定判示した中で、心神喪失あるいは心神耗弱の状態にあったことについて被告人に立証責任があると受け取られかねない表現を用いていることには適切さを欠く点があるというべきである。しかし、原判決の右認定判示を全体としてみれば、実質的に、被告人が原判示第一の犯行当時酒酔いの程度もさほど高くなく、意識障害もなく、自己の行動について記憶、見当識を有しており、犯行動機もあってこれが十分了解可能であるから、心神喪失ないし心神耗弱の状態になかったものと認定できるという判断を示したもの、いいかえると、責任阻却事由ないし法律上の刑の減軽事由の存在しないことが証明されたという判断を示したものであって、これらの事由については、被告人がその存在を立証しなければならないという見解を前提としたものでないことが明らかである。そうすると、右認定判示の内容的な正否は別として、その前提となる立証責任を誰が負うかという点に関しては、原判決には所論主張のような判断の誤りはなく、結局、訴訟手続に所論のような違法はない。論旨は、理由がない。

二  事実誤認、審理不尽、採証法則の誤りの主張(控訴趣意一、三ないし五)について

所論は、要するに、被告人は原判示第一の犯行当時心神喪失あるいは心神耗弱の状態にあったのにかかわらず、被告人に犯行の動機があったものと認定を誤り、また、犯行当時ないしその前後における被告人の酩酊の程度を誤認し、しかも、自らの予断により医師宮内利郎の被告人が犯行当時複雑酩酊の状態にあったとする精神鑑定の結果を排斥し、当然に新たに行うべきであった被告人の精神鑑定を怠り、結局、被告人が心神喪失ないし心神耗弱の状態になかったと認定した原判決には、採証法則の誤り及び審理不尽の違法があり、ひいては事実認定の誤りがあって、その誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかであるというのである。

そこで検討すると、原判決の証拠の標目挙示の各証拠、証人A、同宮内利郎及び同Bの原審公判廷における各供述、Cの司法警察員に対する供述調書、司法警察員作成の緊急逮捕手続書、司法警察員堂園勉作成の昭和六二年五月六日付捜査報告書、司法警察員綱川龍介作成の同年四月二八日付捜査報告書、宮内利郎作成の鑑定書並びに司法警察員作成の酒酔い・酒気帯び鑑識カードを総合すれば、次のような事実が認められる。すなわち、

(1) 被告人は、昭和六二年四月二〇日午後六時ころから午後七時ころまでの間に、肩書住居地の被告人方において日本酒五合位を飲んだこと

(2) 被告人は、同月五日まで自分の勤務していた藤沢市湘南台二丁目三番地の五所在の湘南台ビル地階のナイトパブ「ニュー○○」(以下「○○」という。)に給料の未払い分を貰いに出掛けることにし、場合によっては経営者Dを脅してでも取り立てるつもりで、鞘付くり小刀一丁(当庁昭和六三年押第一九七号の一及び二)及び登山ナイフ一丁(同押号の三)を着用の腹巻内に隠し入れて、右四月二〇日午後七時半ころ被告人方を立ち出たこと

(3) 被告人は、午後八時過ぎころ、小田急線湘南台駅前において、さきに電話で呼び出しをかけておいて友人Bと落ち合い、同人と一緒に藤沢市湘南台〈住所省略〉所在の喫茶店「△△」に赴き、コーヒーを飲むなどして一時間近く過ごしたこと

(4) 被告人は、午後九時ころ、Bと一緒に○○に至って、ボックス席に座りホステスを相手にビールを飲み始め、ホステスの一人であるEらにDを呼ぶよう要求したが、同人とは連絡が取れないなどと言われたため、同人のやって来るのを待つと言って、午後一一時ころまでの間にBと二人でビール中びん八本位を飲んだこと

(5) 被告人は、午後一一時過ぎころBが○○から帰って行ったことから一人でカウンター席に移り、その際ビール中びん二本を自分の前に置きこれを飲み続けながら、カウンター内にいたEにDを呼ぶよう繰り返し要求したりレジの中から給料の未払い分を貰って行くなどと申し向けたりしていたこと

(6) Eは、被告人の右のような状況から危害でも加えられるのではないかと怖れて、Eと同棲中であったF(当時二二歳)を呼びに出掛け、翌二一日午前〇時二〇分ころ同人を○○に連れて来たこと、そして、Fは、カウンター席の被告人の座る場所からやや離れた奥側の椅子に座り、ウイスキーの水割りを飲み始めたこと

(7) 被告人はFが○○にやって来たころ、カウンターにうつ伏せになって眠っていたが、午前〇時半ころ目を覚まし、その直後バランスを崩して椅子ごと倒れるなどしたものの、Fに近寄って同人の右隣りの椅子に座り、同人と若干言葉を交わしたりしたこと

(8) 被告人は、午前〇時四五分ころ、腹巻の間に隠し持っていた前記くり小刀を取り出し、これを右手に握って、左側隣りの椅子に座るFの左前胸部から右上腹部にかけて三回にわたり突き刺し、同人に深さ約一三センチメートルの心臓を貫通する左前胸部刺創等の傷害を負わせ、その後まもなく同人を心臓刺創による出血のため死亡させたこと

(9) 被告人は、Fをくり小刀で突き刺した直後、なお力の残っていた同人にカウンター前の椅子を持って振り回されたりし、また、店内中央のフロアで二人がもつれ合う形となって被告人が二回ばかり転ぶなどしたが、店内から逃げ出したこと

(10) 被告人は、午前〇時五五分ころ、小田急線湘南台駅前で客待ちをしていたタクシーに乗り込んだが、その際には上半身裸となり靴を履いておらず、また、タクシーに乗り込むや、運転手に向かい「大船まで行ってくれ。今一〇人位と喧嘩して来た。追いかけられているので早く出してくれ」などと言ったり、走行中に警察のいわゆるパトカーとすれ違った際「ほら来た、来た」と言ったりしていたこと

(11) 被告人は、午前一時半ころ、別居中の妻の家を訪れ、酒に酔った様子を見せながら大きな声で怒鳴ったり、喧嘩をして皆に追い駆けられているから、泊めてくれと言ったりし、その際血の着いていたズボンを脱いで台所に置いてあったバケツの中に投げ入れて、妻からトレーナーやパジャマのズボンを借り受け、また、妻から色々と問われたのに対し「今人を刺して来た」「もしかしたら死んじゃっているかも知れない」「警察に追われているかも知れない」などと話していること

(12) 被告人は、午前二時過ぎころ、被告人方に立ち帰ったところ、すでに手配により被告人方前に張り込んでいた警察官に発見されて緊急逮捕されたが、午前三時五〇分ころ受けた呼気検査の結果によれば、その際呼気一リットルにつき0.26ミリグラムのアルコール分を身体に保有していたこと

(13) 医師宮内利郎は、被告人がFをくり小刀で突き刺した際の精神状態について、複雑酩酊状態にあり、判断力を完全に喪失していたとはいい難いが、平常に比し減退しており、この状態に本来の性格が加わって犯行に及んだものと鑑定していること

などの事実を認めることができる。そして、これらの事実を総合して考察すると、被告人が原判示第一の犯行当時飲酒して酩酊した状態にあったことは明らかであり、犯行に至るまでの経過と態様、被告人と被害者との関係、飲酒量、犯行後の被告人のやや特異な言動など照らし、その酩酊が病的酩酊にあたるものでないことは認められるものの、単純酩酊にとどまらず、宮内医師の鑑定するように複雑酩酊の状態にあった可能性が強いものと考えられる。この点、原判決は宮内医師の見解を採用し難いものとして排斥しているが、排斥の根拠も必ずしも明確でなく、新たな精神鑑定を行うなど十分に審理を尽した結果導き出された結論とみることもできず、むしろ当審における事実取調べの結果すなわち保崎秀夫作成の精神鑑定書及び証人保崎秀夫の当審公判廷における供述によれば、保崎鑑定人も被告人が犯行直前までは単純酩酊であったが、情動反応で加わった結果、犯行時には複雑酩酊に相当した状態であった可能性が強いと鑑定していることに鑑み、宮内医師の鑑定も合理的なものであって、これを採用できないとした原判決の判断には誤りがあるものというほかない。そうすると、前示のとおり被告人は犯行時病的酩酊の状態になかったものと認められるので、心神喪失の状態になかったと認めた原判決の判断は正当なものとして是認できるが、複雑酩酊の状態にあった可能性は右のようにこれを認めるべきであるので、被告人おいては犯行時自己の行為の是非善悪を弁識し、その弁識に従って行為する能力において通常人に著しく劣った状態にあったのではないかという疑いが残り、このような疑いが残る限り、被告人が心神耗弱の状態になかった旨認定した原判決には事実誤認があるというほかない。

以上要するに、原判決には原判示第一の犯行時の被告人精神状態について十分に審理を尽さず、採証法則を誤った結果、被告人の責任能力に関し事実の誤認があり、右の誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決は、この点において破棄を免れず、論旨は、理由がある。

よって、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により、更に次のとおり判決する。(罪となるべき事実)

被告人は、

第一  昭和六二年四月二一日午前〇時四五分ころ、藤沢市湘南台〈住所省略〉所在の湘南台ビル地階のナイトパブ「ニュー○○」店内において、F(当時二二歳)と言葉を交わすなどした際、かなり飲酒酩酊していた折から、同人の言動ににわかに激昂し、腹巻の間に隠し持っていたくり小刀一丁(鞘付のもの。当庁昭和六三年押第一九七号の一及び二)を取り出し、右くり小刀で同人の身体の枢要部を刺せば同人が死亡するに至るかもしれないことを認識しながらこれを意に介さず、右手に握る右くり小刀で同人の左前胸部及び右上腹部を三回にわたり突き刺し、同人に深さ約一三センチメートルの心臓を貫通する左前胸部刺創等の傷害を負わせ、よって、その後まもなく同店前階段踊り場において、同人をして心臓刺創による出血のため死亡させて殺害し

第二  右四月二一日午前〇時四五分ころ、右「ニュー○○」店内において、業務その他正当な理由による場合でないのに、刃体の長さ約11.9センチメートルの前記くり小刀一丁(鞘付のもの)及び刃体の長さ約一四センチメートルの登山ナイフ一丁(前記押号の三)を携帯したものであるが、なお、右第一の犯行当時飲酒酩酊のため心神耗弱の状態にあったものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(法令の適用)

被告人の判示第一の所為は刑法一九九条に、判示第二の各所為はそれぞれ銃砲刀剣類所持等取締法三二条三号、二二条の各該当するところ、判示第二のくり小刀の携帯と登山ナイフの携帯とは一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから、刑法五四条一項前段、一〇条により一罪として犯情の重いくり小刀の携帯の罪の刑で処断することとし、各所定刑中判示第一の罪について有期懲役刑を、判示第二の罪について懲役刑を選択し、判示第一の罪は心神耗弱者の行為であるから、同法三九条二項、六八条三号により法律上の減軽をし、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により重い判示第一の罪の刑に同法四七条但書の制限内で法定の加重をした刑期範囲内において被告人を懲役六年に処し、同法二一条を適用して原審における未決勾留日数中一五〇日を右刑に算入し、押収してあるくり小刀一丁(当庁昭和六三年押第一九七号の一)及び登山ナイフ一丁(同押号の三)はいずれも判示第二の犯罪行為を組成した物で、被告人以外の者に属さず、また、くり小刀の鞘(同押号の二)はくり小刀の従物であるから、各同法一九条一項一号、二項本文を適用してこれを没収し、当審及び原審における訴訟費用は、刑訴法一八一条一項但書を適用して被告人に負担させないこととする。

(原審弁護人の主張に対する判断)

原審弁護人は、被告人が判示第一の犯行当時心神耗弱の状態にあったにとどまらず、心神喪失の状態にあったと主張している。しかし、この点、被告人は前示のとおり複雑酩酊の状態にあった可能性は肯認できるものの、病的酩酊の状態になかったことは明らであり、したがって、被告人が心神喪失の状態にあったとする弁護人の主張はこれを採用することができない。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官船田三雄 裁判官松本時夫 裁判官秋山規雄)

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